奥様の名前は『斜刺五光』
そして旦那様の名前は『津田島』
ごく普通でない2人はごく普通でない出会いをして、ごく普通でない結婚をしました。
でもただ一つ普通だったのは……奥様は「逃がし屋」だったのです。
2人が極普通でない出会いをしてから早数ヶ月。
その間、組織から逃げて回るだけで収入がない彼らは、ダーリンが足抜けするときに持ち出した上納金を切り崩して生活していました。
そんなときでも着る物にはこだわるダーリン。服は常にアルマーニです。
逃亡当初はありあまるほどだった資金も、彼らの決して地味とは言えない生活によってあっという間に底を尽いてしまいました。
さて、困ったのはこれからです。
先立つものがないと、人間生きてはいけません。
ですが、ヤクザの若頭という地位にあったダーリンに、普通の仕事など出来るはずもありません。
かといって、彼ら自身が追われる立場にある今、奥様が逃がし屋の仕事を再開するという訳にもいきません。
奥様にも、逃がし屋時代に貯めたお金があります。
それはちょっとした金額ではありますが、本当に必要な時のために手を付けずにおこうと取り決めているため、つかうことはできないのです。
生活費の工面に頭を悩ませていた2人に、普段から懇意にしている加藤医師が援助を申し出てくれました。
非合法の病院を経営している加藤先生ですが、実はハリウッドのセレブもびっくりな資産家なのです。
先生の好意に奥様は喜びましたが、ダーリン津田島はその申し出を断ってしまいました。
「普段から世話になってる先生に、これ以上甘える訳にはいかない。そんなことをするぐらいなら、路頭に迷った方がましだ」
それが彼の言い分です。
さすが元若頭。
奥様が思わず惚れ直してしまったほどの男気です。
が、男気だけで生きていければ世の中苦労はしません。
とうとう2人はホテル代を払えなくなってしまい、塒にしているホテルを追い出されてしまったのでした。
さて。困ったのはこれからです。
彼らの荷物と言えば、ダーリンの服が入ったスーツケースと空っぽのジュラルミンケースだけなのです。
2人には今晩泊まるところもありません。
かといって、今更先生に援助をたのむのも、男が廃ります。
そんなこんなで、途方に暮れホテルの前に立ちつくしたその時です。
行く当てのない彼らの前に蜘蛛里警部が現れました。
なんと!彼らのためにとある物件を見つけてきてくれたと言うのです。
この見事なタイミングに、奥様達はびっくりです。
警部とは滅多に会わないため、彼には財政が逼迫していることは話していませんでした。
ですが、恵が顔の広い父親に、彼らの住む家を見つけてくれるようこっそりとお願いしていたのです。
そうして警部に連れられて向かった先にあったのは、築ン十年、今にも崩れそうな四畳半一間のアパートでした。小さなキッチンは付いていますが、トイレは共同使用。ですが、前住人が家具を残して出ていったので、生活に必要な最低限の物は揃っています。これで月2万円は冗談のようなお値段です。
しかも蜘蛛里警部の顔利きなので、敷金も礼金も無しでよいのです。壁が薄いので隣の部屋の声が丸聞こえなのと、お風呂が無いことが難点ですが、この際贅沢など言っていられません。
2人は喜んで契約書にサインをしました。
そうして東京郊外にある小さなアパートで、彼らの新しい生活が始まったのでした。
西向きの窓から差し込む光が少なくなって、部屋が薄暗くなり始めた頃。
津田島家の一つしかない裸電球にも、明かりがともされました
彼らの生活は倹しいもので、部屋にあるのは必要最低限の家具だけです。
キッチンの側には1ドアの小さな冷蔵庫。それには洗濯機代わりの大きな金盥と洗濯板(この金盥は湯浴みにも使われる事が有りました)が立てかけられています。
窓の横にはタンス代わりの2段式カラーボックスが置いてあり、その上に今ではすっかり見かけなくなった、手でチャンネルを廻すタイプのテレビがちょこんと載っています。そして部屋の隅には破れたビニールダンス。これはダーリンのスーツをしまっておくために、奥様がどこからか調達してきた品です。
部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の上には、飲み口の一部分が欠けた湯飲みが置かれています。ちゃぶ台の隣には、柄と見間違うほど見事なシミの付いたぺったんこの座布団の上にあぐらを掻いて新聞を読んでいるダーリンが。
ダーリンの側に、今では珍しい火鉢が置いてありました。その中では炭が燃えており、寒々とした部屋に仄かな暖かさをもたらしています。
この火鉢は蜘蛛里警部からの引越祝いなのです。
あちらこちらから隙間風が吹きすさぶこの部屋は、室温が外と大差ありません。そのことを気の毒に思った蜘蛛里警部が家の物置の中をひっくり返し、使われることなく眠っていた火鉢と炭一袋を彼らにプレゼントしてくれたのでした。
そんな彼らの節約生活はまず食費から。外食などもってのほかです。
そのため、朝はフライパンで焼いたトースト、昼はぬいて、夜はアルバイトを終えた恵が、帰宅途中に夕食を作りに来てくれる毎日でした。
そんな生活が幾日か続いたある日。いつまでも恵の手を煩わせては申し訳ない、自分たちの食事は自分で作ろうと、奥様は決心しました。
恵に負けないものを作ろうと意気込んだ奥さまでしたが、 困ったことに津田島家に料理の本などありません。
料理番組を参考にしようにも、テレビは映りが悪くてキッチンからは見えにくいし、何より材料を揃えるお金が有りません。
色々悩んだ末、恵に作ってもらった料理の中で一番簡単そうだった卵焼きを作ってみることにしました。
記憶だけで作った卵焼きは、フライパンに油を引き忘れたためあちらこちらが張り付いてしまい、ちょっと(というか、かなり)形が崩れて、スクランブルエッグの一歩手前といった感じに仕上がりました。ですが、どこも焦げたりしていません。初めてにしては上出来の部類に入ると思われました。
けれども一口食べたダーリンに、星一徹も思わず唸ってしまうほど見事なちゃぶ台返しをされてしまったのでした。
その原因は、調味料の分量を全て勘に頼り、味見を一切しなかったという、非常にチャレンジャーな調理方法のせいでした。
砂糖と塩を取り違えるという御約束な間違いも、もちろん外していません。
『最高の調味料は愛情だ』と誰かが言っていましたが、奥様の初めての手料理は愛情でカバーするにはあまりにも酷すぎるものでした。
それ以来、奥様は毎日加藤先生の喫茶店に通って、恵に料理の手ほどきを受けているのでした。
そして今日。
奥様が部屋の片隅にある小さなキッチンで、コトコトと何かを煮込んでいます。
料理をする主夫のたしなみとして、いつもの服の上に割烹着を着ています。それは継ぎ接ぎだらけで、しかも醤油で煮染めたように真っ茶色に染まっています。
キッチンに一つしかないコンロの上では、どこから拾ってきたのか思わずツッコミたくなるほどボコボコにへこんだ両手鍋が乗っかっていました。
奥様は菜箸で、鍋の中の物を慎重に突き刺しています。
抵抗なく刺さっていくその感触に一つ頷いた奥様は、コンロの火を止めました。
両手鍋の取っ手を、割烹着の裾でもつと、
「津ーさん、ご飯が出来たよ〜〜」
くるりと体の向きを変え、座って新聞を読んでいるダーリンの元へお鍋を運んでいくのでした。
「ごめんね、遅くなって。お腹空いたでしょォ?」
そう言ってちゃぶ台の上に置かれた鍋の中身は、カボチャの煮物でした。
奥様はキッチンに取って返し、今度は年代物のガス釜で炊いたご飯を二膳、茶碗によそって持ってきました。
ダーリンの右隣に正座して、箸とお茶碗を手に取りました。
鍋に入ったカボチャを一切れ摘みあげると、
「はい、津ーさん。あ〜ん」
この上なく幸せそうににっこり微笑んで、それをダーリンの口元に差し出しました。
ゲシッ
奥様の顔面中央に、ダーリンの無言の裏拳が炸裂。
「冗談だってふぁ……」
茶碗を置き、鼻を押さえて涙目になる奥様。
ですが、ダーリンはそんな奥様に全く目を向けません。
奥様が手にしていた物とは別の茶碗と箸を取り、カボチャの煮物を一口頬ばりました。
「ね……。おいしい?」
小首を傾げてダーリンの顔をのぞき込みます。
愛するダーリンにおいしい物を食べてもらいたい一心で恵シェフに料理をならっている奥様は、ようやく煮物がマスター出来たので、ダーリンの反応にドキドキなのです。
「…………」
ダーリンは煮物とご飯を交互に口に運んでいくだけで、何も言ってくれません。
無言のまま平らげると、湯飲みの中に残ってすっかり冷め切ってしまった白湯を飲み干し、すっくと立ち上がりました。
そのまま部屋の隅に行き、ビニールダンスのファスナーを開けて中からコートを取り出しました。
「出かけてくらぁ」
「津ーさん、何処へ!?」
「あァ? 俺が何処に行こうがいちいちお前に報告しなきゃ行けねェのか?」
「だって! 津ーさん一人だと奴らが来たとき……」
コートに袖を通しつつ煩わしそうな表情で一瞥してきたダーリンに、奥様は慌てて弁解します。
ですがダーリンは
「組織の狙いはおまえだろォがっ。おまえと一緒に出歩くより、一人の方が却って安全なんだよっ!」
そう言って奥さんに蹴りを入れました。
最近はダーリン側の追っ手の姿は無く、むしろ奥様を狙う組織の方が動きは頻繁なのです。その とばっちりを受けて、ダーリン自体何度も危険な目に遭っています。それを言われると、奥様には返す言葉がありません。
しょんぼりと項垂れてしまった奥様を尻目に、ダーリンは足音も荒く部屋を出て行ってしまいました。
暫くすると、アパートのすぐ下の駐車場から、車のエンジン音が聞こえてきました。
やがて車は遠くに走り去ってしまいました。
一人取り残されてしまった奥様。
茶碗と箸を持つと、ぽそぽそと食事を始めました。
煮物は会心の出来でした。が、一人で食べてもおいしくとも何ともありません。
砂を噛んでいるような思いで侘びしく食事を済ませた奥様は、ちゃぶ台の上に残されたダーリンの食器もひとまとめにしてキッチンへ持って行きます。
水を張った洗い桶に食器を入れると、食器洗いのスポンジに洗剤を付けて、それらを洗い始めました。
湯沸かし器など当然ありませんから、蛇口から流れ出る水は氷のように冷たくて、キュッと心臓が痛くなります。
ですが奥様は男の子。その冷たさをグッと我慢して、全てを綺麗に洗っていきます。
特にダーリンの食器は洗剤が残らぬよう、念入りに洗い流します。
食器を洗い終わると、今度は布巾でちゃぶ台を拭いて、これで食事の後かたづけは完了です。
割烹着の裾で手を拭いた奥様は、今度は押し入れの戸を開けて、中にある大きめの段ボール箱を取り出しました。
箱の蓋を開けると、中には造花の内職セットが入っていました。
いつ何時組織の者が襲ってくるか判らない奥様達には普通の仕事は出来ません。ですが、働かざる者喰うべからずの諺も有るとおり、 生きている限りお金は必要なのです。
ダーリンの傍にいつもいることが出来て、比較的自由の利く仕事。そんな条件で色々と探した結果、見つかったのは造花の内職でした。今では奥様が作る造花が、津田島夫婦唯一の収入源となっていました。
ほぅ、と溜息を吐き、座蒲団の上にお姉さん座りをした奥様は、箱の中から材料を取り出しました。そうして2つ、3つと手際よく花を作っていき始めた時でした。
突然奥様の携帯が鳴り始めたのです。
「津ーさん!?」
ダーリンに何かあったのではと、急いで電話を取った奥様でしたが、
「ナナシちゃん? 今からこっちに来れないかな?」
電話の相手は信虎先生でした。
ダーリンは出かけてしまい、この寒々とした部屋の中一人で造花を作り続けるのも寂しいものです。
奥様は先生の誘いを喜んで受けました。
場所は変わって、先生の喫茶店。
奥様は先生の膝に顔を埋めて、さめざめと泣いています。
「ヒックヒック……ヒック」
「ほら、ナナシちゃん。もう泣きやんで」
「だって……先生……」
「泣いてちゃ判らないでしょォ? 何があったのか、教えてくれないかな?」
涙でくしゃくしゃになった顔を上げた奥様は、先生が差し出したハンカチで思いっきり鼻をかみました。それで落ち着いたのか、鼻をすすりながらもぽつぽつと話し始めました。
喫茶店に向かうべく猛スピードで自転車を走らせていた奥様。とある交差点で信号待ちをしていた時、ドレスアップしたカズミさんを助手席に乗せたダーリンの車がいずこかへ向かっていくのを目撃したというのです。
しかもダーリンは、奥様ですら滅多に目にする事のない極上の微笑みを彼女に向けていたのですから、奥様のショックは倍率ドン。更に倍。
「オレにはいつも冷たいのに、カズミさんにはあんな顔してっ……! ヒドイよ、津ーさんっ……」
「まぁまぁ。津ーさんが冷たいのは今に始まった事じゃないでしょ?」
そうつぶやいた奥様に、先生がもっともなことを言いました。確かに、結婚前からダーリンが奥様に優しくしたことなど殆どありません。
先生の言葉に興奮した奥様は、すっくと立ち上がり、
「だって……津ーさんってば、あそこに引っ越してから、全然Hしてくれないんだよっ!? ホテル暮らしだったときはね……(以下自主規制)」
奥さん、奥さん、それはちょっと大きな声で言うモンじゃないでしょう、と言いたくなるぐらい事細かに、夜の生活を話し始めたのです。
のろけ、と言うには度が過ぎるほどですが、先生は全く動じません。
にこにこしながら、奥様の話に耳を傾けています。
と、
ガッチャン
カウンターの奥で、何かが割れる音がしました。
音の原因はウエイターとして働いているケビンでした。
どうやら奥様の語りに驚いて、コップを割ってしまったようです。
「ケビン君、大丈夫? 手を切ったりしてない?」
視線をカウンターへと向け、先生がケビンに声を掛けます。
「HAHAHA、Dr.、大丈夫だ。ちょっと手が滑ってしまった」
「それならいいけど。怪我をしないよう、気をつけてね」
「それでね、その時の津ーさんって……」
二人のやりとりなど関係なし。奥様は先生に夫婦の時間を話し続けています。視線を戻し、ウンウン、それで? と優しく先を促す先生。
流石天才外科医。聞き上手なことこの上なしです。
先生に促され、奥様の語りは更に濃厚な物になっていきます。
カウンターの奥では食器を洗う音が途絶え、水の流れる音だけが聞こえてきます。
それを不審に思った先生が奥様の語りを制し、カウンターの中を覗いてみました。すると、ケビンは蹲り、小刻みに震えてるではありませんか。
「どうしたんだい、ケビン君?」
「いや、ちょっと腹具合が……」
「それはいけないね。薬を……」
「だ、大丈夫だ! 気にしないでくれ、Dr.。トイレに行けば治る」
体調を案じてカウンター内に入ろうとした先生を、ケビンは慌てて止めました。
そしてお腹より幾分下側を押さえて立ち上がると、心持ち前屈みになってトイレへ駈け込んでいったのでした。
そんなケビンを見送った先生が奥様の元に戻ると、先ほどまで嬉しそうに話していた奥様のテンションは大幅にダウンしていました。
「津ーさん、ひょっとして、オレのこと嫌いになったんじゃ……」
そう言って加藤先生を見つめる瞳には、大粒の涙まで浮かんでいます。
「大丈夫。こんなに可愛いナナシちゃんがいるのに、浮気するような津ーさんじゃないでしょ?」
先生はポケットから先ほどの物とは違うハンカチをとりだすと、奥様の涙をそっと拭い、優しく諭します。
「毎日同じ生活だから、ちょっと退屈になっちゃったんだろうね、きっと」
「そんな……じゃぁ、オレはどォすれば?」
「ん〜。そうだねェ。たまには、デートなんてしてみればいいんじゃないかな?」
「デート!?」
先生の提案に、奥様は思わず素っ頓狂な声を出してしまいました。
逃亡生活を続けるうちに関係が深まり、そのまま結婚へとなだれ込んだ奥様は、ダーリンとデートをしたことがなかったのです。
「でもオレ……、服持ってないし」
いいながら、指先でテーブルにのの字のの字と書き続けています。奥様は生活費を工面するため、自らの服をリサイクルショップへと売ってしまっていたのでした。
残っているのは今着ている服を含めて2着だけで、しかもかなりくたびれてしまっています。
「ちょっとまっててね」
不安そうな面持ちの奥様ににっこりと微笑み、スタッフルームへ消えた先生。暫くすると、大きな箱と小さな箱を両手に抱えて出てきました。
先生はよっこらせ、と箱をテーブルの上に置きました。
奥様は目の前に置かれたそれを不思議そうに見つめます。
「これは?」
「開けてごらん」
先生に言われ、開けてみることにしました。
最初に開けたのは小さい箱です。その中に入っていたのは、フリルがふんだんに使われた、可愛い真っ白なエプロンでした。
そしてもう一つ。エプロンの箱の倍以上はある大きな箱を開けてみると、こちらにはダーリンが着ている物と同じ、アルマーニのスーツ一式でした。
思わず固まってしまった奥様に、先生が言いました。
「いつも着たきり雀なナナシちゃんに、プレゼント」
「そんなっ! こんな高価な物、もらえないよっ!!」
先生の言葉に、奥様は慌てて箱を閉め、先生に返そうとしました。
ですが先生はそれを押しとどめ、ゆっくりと首を振りました。
「ナナシちゃんが逃がしてくれたから、今ボクはここにいるんだよ。ボクの運命を変えてくれた君には、いくら感謝してもたりないぐらいだから。だから、これはボクからのささやかな御礼。ナナシちゃんは可愛いんだから、もっとオシャレしないと。
これを着て、明日津ーさんとデートしておいで。ね?」
「オレ、先生と結婚すればよかったかな……」
「こーら。津ーさんと結婚出来て幸せなんでしょう? そんな心にも無いこと言っちゃダメだよ。ナナシちゃんにそんなこと言われたら、いくらボクでも、ホンキにしちゃうゾ?」
感激のあまりそんなことを洩らした奥様に、先生は軽くげんこつを握ると、奥様の額をコツンと小突き、優しくたしなめました。
その後ケビンの車で送ってもらい、奥様は大きな荷物を抱えて帰宅しました。
ダーリンはまだ帰って居ないようです。
冬の陽は落ちるのが早いので、部屋の中は当然真っ暗です。
電気を点けて、壁に掛かった温度計を確認します。出かけたときよりもいっそう室温は下がってましたが、奥様は明日のデートのことで心がいっぱいになっているので、寒さなんて全く気になりません。
先生からもらった服を押し入れの中に大事にしまうと、内職道具一式を引っ張り出しました。そうして明日心おきなくデートが出来るように、残っていた内職を猛スピードで片づけていったのでした。
明けて次の日は快晴。絶好のデート日和となりました。
奥様が運転している隣では、ダーリンが大あくびをしています。帰ってくるのが遅かったため、寝入ったのは早朝でした。
それなのに昼前に起こされてしまい、簡単な昼食を摂っただけで何の説明もなく連れ出されたダーリンは、全身から不機嫌オーラを放ちまくっています。
「どこへ行くんだ?」
「映画館」
「映画館?」
「うん。予約してあるから津ーさんと2人で見に行っておいでって、トラ先生が映画のチケットをくれたんだ」
加藤先生の名前を出されてしまっては、さすがのダーリンも文句は言えません。オーラを幾分か和らげ、黙って窓の外を見つめていました。
彼らが向かった先は、つい先日オープンしたばかりのシネマ・コンプレックスでした。
そこは様々な映画が上映されている、人気のデートスポットでもありました。
予約しているのは『FULL A HEAD』というタイトルで、失われたファルコン文明を追い求める海賊達を描いた海洋冒険ロマンです。
最先端のVFXとストーリーの緻密さ、そしてなにより魅力的なキャラクターが受けて大ヒット中の映画なのです。
到着した彼らは入り口で、次回上映時間を確認しました。
ちょっと早く来すぎてしまったらしく、現在の時刻は上映30分前です。にもかかわらず、奥様達が観る時間の上映案内には「満席」の表示がだされていました。
「あ……。満席だって……」
「あほぅ。予約してんだから、満席でも関係ねェだろうがっ」
「そっか。そうだったね」
満席の表示にがっくりと肩を落とした奥様に、ダーリンのもっともなツッコミが入ります。
そのツッコミで自分のおまぬけぶりに気づいた奥様は、気を取り直して窓口へと向かいました。
「すいません、これ」
先生からもらった封筒を差し出します。
「津田島様ですね。こちらへドウゾ」
案内係のお姉さんの後について、館内に足を踏み入れました。
すると、どうしたことでしょう。
満席の表示がされていたにも拘わらず、中はがらがらで人っ子一人いません。
戸惑う奥様とダーリン。奥様は前を歩くお姉さんに控えめに声を掛けました。
「すいません……」
「はい?」
「確か、受付では満席の表示が出てたと思うんですが?」
足を止めて振り向いたお姉さんは、にこりと微笑みました。
「今回の上映は、津田島様の貸し切りとなっております」
『えっ?』
予想だにしなかった言葉に二人はびっくり仰天。ですが係のお姉さんはそんな彼らの反応も全く気にせず、館内をすたすたと歩いていきます。
「こちらでございます」
案内された先は、スクリーンの真正面に設えられたスーパープレミアムシートでした。
このシートはベンチタイプになっており、2人で並んで座れるため、恋人達に人気のシートなのです。しかもここは、簡易テーブルまで設置されている特別席です。
さすが先生。やることにそつがありません。
シートに腰を下ろした奥様は、ワクワクと子供のような表情を浮かべています。
「オレね、この映画ずっと観たかったんだ」
「ケッ」
無邪気にはしゃぐ奥様とは対照的に、ダーリンはつまらなさそうです。舌打ちまでされてしまい、奥様はちょっと心配になってきました。
「津ーさん、こんなの嫌い?」
「ファンタジーなんざ、女子供が観るモンだ」
「ゴメン!それなら他のにしようか」
その言葉に慌てて立ち上がった奥様を、ダーリンはジロリとにらみつけ、
「あァ? 先生の好意を無にする気か?」
と言いました。
言われてみれば確かにそうです。
映画を観ないで席を立ってしまったら、映画館を貸し切りにしてまで2人のデートをお膳立てしてくれた先生に申し訳が立ちません。
そのことに気づき、再び腰を下ろした奥様でしたが、数分もすると、もぞもぞし始めました。
「何モゾモゾしてやがる。ションベンがしてェなら、いまのうちに行ってこいっ」
「ち、違うよっ」
身も蓋もないダーリンの言葉を、奥様は真っ赤になって否定します。
「だったらなんだ」
「それは……」
奥様は言いよどみました。
初めてのデート。しかも500人は優に入れるほど広い館内にダーリンと2人きり、というシチュエーションが何となくくすぐったくて落ち着かない、なんてそんなことは恥ずかしくてダーリンには言えません。
「そうだっ! オレ、飲物買ってくるよっ! 津ーさんは何がいい?」
「コーヒー」
なんとかして誤魔化そうと考えた奥様は、いそいそと飲物を買いに出て行きました。
程なく、ポップコーンと飲物が載ったトレイを持って、奥様が戻ってきました。
一緒に買ったのか、脇にはパンフレットを挟んでいます。
「おっまたせー」
トレイをテーブルに置いてベンチに座った奥様は、早速パンフレットを捲り始めました。
「あ〜ん? 今からパンフレット見たら、内容がわかっちまうだろうがっ」
「え、だって。ある程度知識入れておいた方が、話が分かり易くない?」
「オレはゴメンだね。映画ってのは、まっさらな状態で観るのが一番楽しめるってモンだっ」
「へェ〜。津ーさんはそうなんだ」
ダーリンの新たなる一面を発見! と内心でガッツポーズをする奥様でした。
そんな話をしているうちに時間が来たのでしょう。場内のライトが全て消され、劇場特有の長い予告が始まりました。
10分以上続いたCMも漸く終わり、お待ちかねの、本編の始まりです。
主役のクレイジーバーツと、彼のライバルであるキャプテングラフ。
彼らの航海の先々には化獣や巨獣と言った不思議な生き物と、それらを操るオールドブラッドと呼ばれる者達が現れます。けれどもバーツはそんなことはお構いなし。双剣を振りかざし、行く手を妨げるもの全てを蹴散らして、大画面を所狭しと暴れまくります
その迫力に、奥様は手にしたコーラとポップコーンを口に運ぶことすら忘れて、スクリーンに見入っています。
最初はそんな奥様を呆れたように見ていたダーリンも、いつしか瞬きすら惜しむほど、映画に没頭していったのでした。
映画が終わり、エンドロールまでしっかり堪能した2人が劇場の外に出ると、そこには次の上映を待つ人たちの長い列が出来ていました。
バーツやグラフ目当ての人が多いらしく、並んでるのは女性が殆どです。
居並ぶ人達は、たった2人で出てきた彼らに好奇の視線を遠慮無く送ります。
なかには友達同士で耳打ちし、「きゃぁ」と小さく嬉しそうな声を上げる人もいました。
それもそうでしょう。
この映画は恋愛物ではありませんから、友人同士で観に来ていても全くおかしくはありません。ですが、映画館を貸し切りにして出てきた2人が、同じブランドのスーツを着ているとなれば、妄想を逞しくしてしまう女性が出てくるのも無理からぬ事です。
そして困ったことに、その妄想は正しいのですから。否定など出来ようはずがありません。
ダーリンはそんな女性達の反応も黙殺し、真っ直ぐ前を向いて堂々と歩いていきます。
奥様といえば、恥ずかしさのあまり、猛ダッシュでその場から逃げ出してしまいました。
「面白かったね〜」
「まぁまぁだな。たまにはガキの映画ってのも悪かねェ」
「そうだねっ!」
どうやらダーリンは映画を気に入ってくれたようです。
これは素直でないダーリンにとって、最大の賛辞なのです。
奥様はまるで自分が褒められたかの様に、嬉しくなりました。
そんな奥様をチロリと見て、ダーリンが言いました。
「クレイジーバーツって、お前に似てねェか?」
「え〜? オレ、あんな顔してる??」
「あほぅ。外見じゃなくて行動が、だ。高速船に泳いで追いついたり、ン十キロを軽々走ったりとかよ。あの無茶苦茶加減が、Switchが入ったお前にそっくりだってのっ」
「そっかな……」
「お前、実はファルコンの民の血を引いてるんじゃねェのか?」
「もしそうだったらどうする?」
たわいのない会話を続けながらも、奥様の視線はダーリンに釘付けになっていました。
追っ手に見つかってもすぐ対処出来るように、車の運転は奥様の役目です。なのにどうしたことか、映画館を出るとダーリンがハンドルを握ったのです。
運転中はよそ見することが出来ませんから、普段はダーリンの顔を見ることが出来ません。
だけど今日は違います。
前を見なくとも、ぶつかる心配などないのです。運転し続けるダーリンのりりしい横顔を、奥様は飽きることなく見惚れていました
それからかなり車を走らせた頃。
ダーリンに向けていた視線をふと窓の外に移した奥様は、見たことのない景色が流れている事に気が付きました。
てっきり家に帰るのだと思っていたのに、方向がまるで違うのです。
「津ーさん、何処に行くの?」
「黙ってろ」
ダーリンは有無を言わせぬ口調でそう言うと、むっつりと黙り込んでしまいました。
先ほどの和やかな雰囲気は一変し、車内に重苦しい雰囲気が漂います。
沈黙が続くなか暫くすると、行く手に高い建物が見えてきました。
ダーリンはその建物の地下駐車場へ車を停めると、エンジンを切って降りてしまいました。
奥様が降りるのを待つこともせずにさっさとエレベーターへと向かうダーリンを、奥様は慌てて追いかけます。
エレベーターで1階へと上がってみると、そこはホテルのロビーでした。しかし、今まで泊まっていたホテルとは明らかに格が違います。
そこは世間知らずな奥様でも耳にしたことのある、国内最高級のホテルだったのです。
高級感漂うロビーの雰囲気に押された奥様は、口をぽかーんと開けてただただ呆然とするばかりです。そんな奥様をその場に残し、ダーリンはフロントへ行ってしまいました。
「オラ、上がるぞ」
戻ってきたダーリンは奥様の足を蹴飛ばし、2人は再びエレベーターへ乗り込みました。
ダーリンが階層ボタンを押すと、エレベーターは上昇を始めました。
「???」
ダーリンは相変わらず何も言いません。
奥様の頭の上にはたくさんの?マークが浮かんでいます。
無言の2人を乗せたエレベーターは最上階で止まりました。
エレベーターを降りると、正面にそれはそれは豪華な扉がありました。
ダーリンは持っていたキィを差し込み、ロックを外しました。扉が開かれた向こうには、TVの中だけでしか見たことが無い豪奢な部屋が広がっています。
そこは1フロア全てを使ったスイートルームでした。壁全面がガラス張りになっているため、見晴らしは最高です。
ダーリンは部屋に入るとソファーにどっかりと腰を下ろし、早々とくつろぐ体勢でいます。
事情の飲み込めない奥様は、その隣で立ちつくすばかりです。
「なに突っ立ってやがるっ。お前もとっとと座れよっ」
「津ーさん、ねェ、これってどういう事っ!??」
「ああ? さっきからうるせぇなっ! 今日はお前の誕生日だろうがっ!」
混乱しまくりの奥様に、ダーリンは少々キレ気味に応えました。
言われて、奥様は思い出しました。
過去の記憶が全くないせいで自分の名前も生年月日もわからなかった奥様に、加藤先生が誕生日を決めてくれた事が有りました。
それはまさしく今日です。
でもまさかダーリンがそのことを知ってて、更にこんなプレゼントを用意してくれているなんて思ってもいなかった奥様は、ただただ驚くばかりです。
ですが奥様には、プレゼントを用意してくれていたうれしさ以上に、気に掛かることがありました。
「でも……こんなお金、一体どこから……?」
そうです。ボロアパートの四畳半暮らしをしている現在、一泊ン十万もするこの部屋に泊まる余裕など無いはず。
家計を預かる身としては、お金の出所が気になるのも当たり前です。
「カジノだ」
真っ先にお金の心配をしてしまう奥様に、ダーリンは面白くなさそうに言いました。
「カジノ!? でも、ここは日本だよ」
「はん。金持ちの奴らにはそんなこと関係ねェんだよっ」
「でも! 非合法のカジノなんて、津ーさんの事知ってるヤツらばっかりで、めちゃめちゃ危ないんじゃ……!!」
上流階級の人が利用するカジノとはいえ、ヤクザが仕切っているに違い有りません。
そんなところにお尋ね者のダーリンが行く事はかなり危険なことです。
「へっ。人間なんて適当なもんサ。頬の傷をメイクで隠してちょいと髪型を変えただけで、誰も気づかなかったぜ」
「それじゃぁ昨日、カズミさんと一緒だったのも……」
「イイ女と一緒に行けば、人の視線は男より女の方に集まるからよォ。カズミには隠れ蓑になってもらったってワケだ」
「そっか……」
「ンーだァ? 泣いてんのかよっ」
「オレ、津ーさんに嫌われたのかと思ってたからサ」
「あァ!? どっからそんな話が出てくるんだよっ!?」
「だって……! 津ーさん、最近Hしてくれないから」
モジモジしながら消え入りそうな声で言う奥様に、ダーリンは呆れたような視線を送ります
「タァーコ。あんな壁の薄いところでヤれるかよっ。お前の声を他のヤツに聞かせるほど、オレは寛大じゃねェからな」
「えっ……!?」
ダーリンのとんでもない告白に、奥様の顔は耳まで赤く染まりました。
「津ーさん……」
「ンだよっ」
ダーリンは奥様と視線を合わすことなく、ぶっきらぼうに返事をしました。
ですが、それが照れ隠しなのは奥様にはお見通しなのです。
「ありがとう」
「くっつくな、暑苦しいっ」
そうして奥様はダーリンと一緒に、充実した一夜を過ごしましたとさ。
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