額にあてられた、ひんやりとした感触で目を覚ました。
最初に目に入ったのは、美しい顔を憔悴させた妻の顔。
そして顔を横に向けると、隣のベッドには片目に包帯を巻いた我が子の姿。
最後に覚えているのは・・焼け付く様な痛みだった。
アーバランを目前にしながら嵐に巻き込まれ、激しく揺れるクロウバード号。
キャプテンとして、嵐を無事に乗り切るための指示を出さなければならない。
グラフは息子に船長室で大人しく待っているように言い聞かせ、甲板に出ていった。
風と豪雨と雷のなか、クルー達に的確に指示を出していく。
暫くして風と雨がおさまり、雷の音が鳴り響くだけになって、ホッと一息ついたとき。
息子が雷の音におびえ、グラフの傍に居ようと泣きながら甲板へと上がってきた。
マストに落雷したのはそのときだった。
バリバリともの凄い音をたてて裂けていくマスト。
鋭く裂けたマストの一部が我が子に向かって落ちていくのを見て、反射的に身体が動いた。
息子をかばうように抱きしめ、逃げようとした瞬間。
左胸に貫かれる感触、そして息子の叫びを耳にして意識を失った。
「大丈夫か・・・?」
それはいつも笑顔を絶やさなかった妻の、初めて見る痛々しい様子に思わずでた言葉。
そして隣で眠っている息子に対する心配。
妻はグラフが伸ばした手をそっと握り、頷いた。
「あの子は大丈夫・・。あなたは・・・2週間眠りっぱなしだったのよ・・」
「あの子はいったいどうしたんだ?」
ようやく意識を取り戻したばかりで身体を起こすことなど適わない。
だがグラフの頭を占めるのは包帯を巻いて隣で寝ている息子のこと。
「マストが落ちてきたのは覚えてる?」
「ああ・・俺があの子を庇って・・」
「あなたの背中に突き刺さったのよ・・。そしてあなたの身体を突き抜けて・・あの子の右目にまで到達したの」
「・・・・」
「あの子は右目を失明したわ・・。あなたの傷は心臓のすぐ側だったから・・お医者様は助からないだろうって・・・」
医者に死を宣告されてなお、愛する夫を信じてたった1人で夫と息子を看病し続けた気丈な妻。
夫が意識を取り戻してくれたことに気がゆるんだのか、翠の瞳からは涙が浮かんであふれ出した。
「すまなかった・・・」
それだけしか言葉が出なかった。
初めて見る妻の涙。
失ってしまった息子の右目。
グラフは生まれて初めて後悔を知った。
事故から1ヶ月。
医者に見放されたほどの大ケガだったにも拘わらず、グラフは自慢のライフルを撃てるまでに回復していた。
近いうちに航海へ出ることも出来るようになるだろう。
だがあの事故の後から、彼の息子は船に乗るどころか近づく事すら拒むようになった。
その理由は船や海に対する恐怖というより、父親であるグラフが死にかけたことが1番の原因。
大事な人を失う怖さを知ってしまった息子。
だから彼は息子に跡を継ぐよう、無理に言えなくなった。
そうして日々は過ぎ、あの事故の痕跡は、自分の胸と息子の右目に残る傷跡だけになり。
グラフはすっかり元通りの身体になったと思っていた。
だがある日、医者に告げられた。
「心臓近くに破片が残っていて取り出せない」
それは爆弾に等しいものだった。
いつ何時心臓に突き刺さるかわからない。
突き刺さることなく一生を無事に過ごす可能性もある。
我が身を賭けた一世一代の博打。
医者の言葉を聞いて、彼はある決心をした。
動けるうちに誰も見たことのない未知への領域に挑む。
『海賊の墓場』へ行って、戻ってこようと。
「気を付けて・・」
早朝。妻の見送りを受けてグラフは旅立つ。
海賊という、明日をも知れぬ職業の男を夫に持ちながら、彼女はいつでも微笑んで待っていた。
何も言わず、ただ夫を待ち続け・・。その優しさに甘えていたのかも知れない。
だがこれが最後の我が侭。
必ず帰ってくる。
だから息子にも妻にも別れの言葉は言わない。
男として、海賊として生きた証を残す為に、グラフはただ1人で出航していった。
そして彼の息子は大事な人を取り戻すために、海の男へと成長した――。
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