全ての化獣を振り切り、その後現れた巨獣も撃退した船団は、一隻残らず錨を下ろし、静かな波間にたゆたっていた。
 夜も更けて、不寝番のクルー以外皆寝静まったころ。スイートマドンナ号のマストから、隣接する船へと飛び移っていく影があった。
 月の光を見事な銀髪に反射させ、甲板へと降り立ったのはスイートマドンナのキャプテン、バーツだった。
 灯りが消されて真っ暗になった船内を、一度も足を止めることなく、確かな足取りで歩いていく。
 ややあって、大きな扉の前に到着した。
 部屋の住人はまだ起きているのか、扉の隙間から細い糸のような光が漏れている。
 バーツは微かな笑みを浮かべた。軽くノックをして扉を開け、部屋の中へ足を踏み入れた。
 部屋の中央、やや窓際よりに、扉に向かう形で大きなデスクがおかれている。この部屋の主、キャプテングラフが、そのデスクで何かを書き記していた。
 ドアが開かれた気配にグラフが顔を上げた。視線の先にバーツを認めると、羽ペンを置き、ノートを閉じた。
 革で作られた表紙には【航海日誌】の文字が刻まれている。
 連日の戦いで疲れ果てているはずなのに、眠らずに航海日誌を付けていたのだ。バーツは思わず苦笑を浮かべた。
「こんな遅くまでご苦労なこったな」
 呆れているような声だった。
 グラフは椅子から立ち上がるとデスクの前に歩み出た。腰をデスクにもたせかけ、
「化獣との戦いで、航海日誌を付ける暇もなかったからな。そう言うお前は、こんな夜更けに何しに来たんだ?」
「なぁに。久しぶりにお前の寝込みを襲おうかと思ってよォ。まさかこんな時間まで起きてるとは、予想外だったけどな」
 素っ気ないグラフの返事を気にする風もない。バーツはふざけた口調で言葉を返す。
「期待に添えなくて悪かったな」
「まぁ、いいさ。起こす手間が省けたと思えば」
 笑いを堪えるような表情を作り肩を竦めたグラフに大股で歩み寄ると、彼の腰に腕を廻し、軽く抱き寄せた。
 だがグラフは薄く微笑んだと思えば、腕の中からするりと抜け出してしまった。
 そのまま戸口へと歩いていく。バーツはその背に向かって不機嫌そうに声をかける。
「んだよ。逃げることないだろォ?」
「そんなに急くなって。折角来たんだ。こっちでゆっくりしていけよ」
 逃げられたことで拗ねてしまったバーツを肩越しに振り返り、グラフは隣室へ通じる扉を開けた。


 船長室の隣はグラフのプライベートルームになっている。
 広めの部屋にはセミダブルベッドと一人がけのソファーが2脚、センターテーブル。そして所持品をしまうチェストに、寝酒をストックしているキャビネット。
 幾度となく訪れ、今では見慣れてしまった彼の部屋。そこは相変わらず綺麗に整頓されていて、居心地のよいものであった。
 バーツは何気なく視線を移したチェストの上に、写真立てが置かれている事に気が付いた。
 以前訪ねてきたときにはなかったそれを手に取った。部屋の持ち主に面差しのよく似た女性が、写真の中で微笑んでいる。
「どうした?座れよ」
 ソファに腰掛けることもせず、立ったまま写真を見つめているバーツにグラフは声を掛ける。そしてキャビネットの戸を開け、バーボンとグラスを取り出した。
「飲むだろォ?」
 バーツに向かって笑いかけ、テーブルの上にグラスを2つ並べて置いた。
 バーツはチェストに写真立てを戻すと、ソファーへ腰を下ろした。グラスに、琥珀色の液体が注がれていく。
「ほら」
 バーボンが入ったグラフが目の前に差し出された。
「あ、ああ……。」
 ぼんやりしていたバーツは慌ててグラスを受け取った。
「久しぶりの静かな夜に乾杯しようぜ」
 正面に腰を下ろしたグラフと、お互いのグラスを軽く当てた。
 チン、と小気味よい音が部屋に響く。
 バーツがグラスに口を付けたとき
「漸くここまで来れたな」
 感慨深げにグラフが言った。
「そうだな。巨獣が現れたときはもうダメかと思ったが……。まさかココがお前の所にいるとはな」
 バーツがちらりと非難めいた目でグラフを見た。
 グラフは苦笑を浮かべるしかなかった。
「だから、悪かったって」
「まあいいさ。来ちまったものは仕方ねェ」
「お前は先導の船にいたから知らないだろうが、化獣に襲われていた間、あいつも戦ってたんだぜ。
アイツはなりは小さいが、一人前の海賊だ。父親のでっかい背中を見て、立派に育ってる」
 グラフの言葉にこそばゆいような、何とも言えない感覚を覚えたバーツはソッポを向き、持ったままでいるグラスの中身を一気に呷った。空になったグラスをテーブルに置くと、
「おだてたって何も出ねェゾ」
 不機嫌そうにいった。だが、それが照れ隠しなのは明らかだ。
「事実だよ」
 グラフはクスクスと笑い、空になったグラスに再びバーボンを注ごうと、テーブルの上に置いてある瓶に手を伸ばした
 だがグラフより早くバーツが瓶を掴み、そのまま口を付けた。
「お、おい!」
  驚いたグラフが止める間もなく、封を切ったばかりのバーボンは瞬く間に飲み干されてしまった。バーツは空になった瓶を後方に放り投げ、熱い息を天井へ向けて吐き出した。
「明日に響いても知らねェゾ」
 呆れ返ったグラフに
「あともう3,4日もすれば浮島につく」
 バーツがポツリと呟いた。
「そうすれば、いよいよライツワイズとご対面だ。腕が鳴るな」
「そうだな……」
 それに応えるように、グラフは右手の肘を曲げ、左手で二の腕を叩いて笑った。
 しかし、バーツの表情は暗い。グラフは笑みを消して、腕を下ろした。
「バーツ、どうした? 腹でも痛ェのか?」
 先ほどまでとは全く違うバーツの雰囲気に、心配そうに顔を覗き込む。
「お前は帰れ」
「……今、なんて言った?」
 突然の言葉に、グラフは耳を疑った。思わず聞き返す。
「お前は此処まででいい。アーバランへ帰れ」
「お前、酔ってんだろ? やっぱり飲み過ぎ……」
「酔ってねェよ」
 グラフの言葉を遮る。バーツの瞳にはアルコールの気配は微塵も感じられない。
 グラフは表情を消し、険しい色を浮かべた瞳でバーツを見据えた。
「……なんでいきなりそんなこと言うんだ?
ここまで来ておきながら、今更帰れって言うのか? そんな事をするぐらいなら、最初から参加なんかしてねェよ」
 バーツはチェストの上にある写真立てをチラリと見遣る。
「大勢死んでいった……。これからも……死んでいくだろう。
 お前には、血を残し、アーバランを護る義務があるだろう? 俺の我が侭に付き合って……もしお前に何かあったら、アーバランで待っているあの人に申し訳がたたねぇ」
 グラフは突き刺すような視線をバーツに送り、バーツもそれを臆することなく受け止める。
 金茶色の瞳と、蒼色の瞳。2つの異なった色の瞳に、映るのはお互いの姿だけ。
 グラフの隻眼が、すぅっと細められた。閉じていた唇が、静かに、しかしハッキリと、一つの言葉を紡ぐ。
「イヤだ」
「グラフ!!」
 その答えに、バーツは腰を浮かせ、テーブルがきしむほど強く掌を叩きつけた。
 「もしお前に万一のことがあったら、アーバランはどうなる!? グラフの血を絶やすことになるんだぞ!!」
 怒気を含んだバーツの言葉にグラフも立ち上がり、負けじと言い返す。
「それを言うなら、レッドスケルだって、カフェルを連れて参戦してるだろォが! レッドスケルはよくてクロウバードが駄目な理由ってのを言ってみろよ! それとも、なにか? クロウバードは腰抜けの集団だから、いたって邪魔になるだけだとでも!!??」
 噛みつかんばかりの勢いで反論する。しばし睨み合いが続いた。
 と、バーツがガクリと肩を落とし、ソファへとへたり込んだ。
 掌で顔を覆って項垂れる。
「そうじゃねぇ……そうじゃねぇよ……」
「じゃぁなんだってんだよ!?」
 バーツは眉根を寄せてグラフを見上げ、
「浮島に着いちまったら……お前、逃げないだろう?」
「ま、まぁな」
「それが怖いんだ……」
 バーツは知っていた。目の前にいるその人が、必要以上に戦う事をしない訳を。
 それは臆病からではなく、母港で待つ、大事な人を一人にしないため。
 大事な人を失う怖さを誰よりも知っている、彼。だからこそ、他の人たちにその淋しさを味合わせまいと、生に執着し続けている。
 世間では腰抜けの集団と噂されているクロウバードのクルー達。本当の彼らは、皆、信念のため、キャプテンの為に命を懸ける事を畏れない、勇敢な男達なのだ。
 そして、彼らを束ねるグラフも、また。
 彼の中に流れる海賊の血は、誰よりも熱く、激しい。
 命を懸けるに値することには躊躇することなく、その身を投げ出すことも厭わない男なのだ。
 この戦いでグラフが命を落とすとは限らない。今までと同じようにケガ一つ無く生還する可能性もある。
 それでも。
 万が一のことを考えると、身体が引き裂かれんばかりの恐怖に囚われてしまう。
「頼む、戻ってくれ……」
 頭を抱え苦しげに絞り出される呟きに、ふとグラフの表情が和らいだ。
 バーツに近づき、彼の前に跪くと、頬を両手でそっと包み込む。
 そして顔を上げさせ真正面から向き合うと、グラフの口元に、包み込む様な、穏やかで優しげな笑みが浮かんだ。
「なぁバーツ……。アクアマリンって知ってるか?」
 唐突に訊かれ、バーツは面食らった。
 自分の頼みとアクアマリンの繋がりが掴めないまま、宝石に関する乏しい知識を何とか引っ張り出す。
「ああ……海難を防ぐって言われている、船乗りのお守りだろォ? もっとも、貴重すぎて俺達には手の届かない宝石だが……。それがどうかしたか?」
「俺は、その宝石を2つも持っているんだ。しかも、最高級のものをな」
「初耳だな。いつ、手に入れたんだ?」
「俺が海に出る様になってすぐ、かな。……どういう意味か解るか?」
 悪戯っぽい表情を浮かべるグラフに、バーツは少し考えた後、黙って首を振った。
「俺の手に入れたアクアマリンは……バーツ、お前だよ」
「それは……」
 どういう事だ、と言いかけたバーツだったがその瞬間、グラフの指す宝石が自分の瞳だと気付いた。
 思いがけない言葉に、バーツは頬が熱くなるのを自覚せざるを得なかった。
「お前がいる限り、俺は海では死なない。だから、俺は帰らない。何処までもお前と共に行くよ」
 そう言ってバーツを見つめ返すグラフは、何者も畏れない、真っ直ぐな瞳をしていた。
 そんな目をするときの彼は、絶対に自分の言い分を曲げることをしない。
 長いつき合いでそのことをよく知っているバーツにはそれ以上何も言えなくなってしまった。
「……どうしても、帰らないのか」
「どうしても、だ」
「ったく。……変なところで強情なんだからよォ」
 肩を竦め、諦めた様に呟いたバーツだったが、その声音はどことなく嬉しげだった。
「ンだよ、今頃気が付いたのか?」
「いいや、知ってたけどよォ……。お前を腰抜け呼ばわりしているヤツに、本当のお前を見せてやりてェよ」
「周りの言葉なんざ、気にしないよ。お前が俺を知ってくれていれば、それでいいんだから」
 グラフはふわりと微笑んだ。
 その微笑みに、バーツは暫し見惚れた。
 男として、海賊を生業にする者として、腰抜け呼ばわりされる事は屈辱以外のなにものでもないはずなのに、目の前にいる人はそんなことは些末なことと、あっさりと笑い飛ばしてしまう。
 それは、他の誰も持ち得ない強さ。
 自分がグラフに魅かれたのは、その魂の強さなのだと、バーツは改めて気付かされる。
 グラフは笑みをおさめると、バーツの首に腕を廻しそっと抱きついた。
「俺が海で死ぬ時は、アクアマリンの加護が無くなったときなんだからな。お前が居なくなったら、俺も生きていられない。そのことを良く肝に命じておけよ」
 小さく呟くその身は微かに震えていた。バーツを見つめる瞳に先ほどまでの力強い光はなく、代わりに、隠しようのない不安の影がその顔をおおっている。
 自分と同じくグラフも失うことを恐れているのだと悟ったバーツは安心させる様に唇を微笑みの形に動かし、優しくグラフの黒髪を抱き締めた。
「大丈夫。俺はライツワイズになんか負けねェ。俺もとびきりのお守りを持ってるからな」
「お守り……?」
「ああ。とびきり上等のトパーズが、ここにあるからな」
 顔を上げたグラフの、左の眦に軽く口づけた。
 僅かに頬を染めたグラフが、不思議そうな表情を浮かべて訊いた。
「トパーズ? トパーズって、海の守りになる様な石だったか?」
「海の護りって訳じゃねェが……。トパーズってのは『闇の中で光を放って、魔を退ける』力があるんだとよ。だからお前が側に居てくれれば、ライツワイズなんてへでもねェさ」
 バーツはそう言って、満面の笑みを浮かべた。
 そんなバーツの顔を思わず凝視する
「……どうした?」
「お前がそんなこと知っていたなんて、意外だな、と思ってさ」
 グラフは軽く頭を振って答えた。
「惚れ直したか?」
「バカヤロ」
 グラフに向かって見事なウインクをした。
 グラフの頬が朱に染まった。バーツから離れ、大きく拳を振り上げると、彼に向けて振り下ろした。
「っと」
 バーツは振り下ろされた拳を大げさに避けた。空を切った腕を掴んで引き寄せ、その身を抱き締めた。
「絶対生きて帰るからな。なんつっても、お前からまだ聞いてねェ言葉がいっぱいあるんだからよ」
「決戦が終わったら、好きなだけ聞かせてやるよ」
 顔を見合わせ、笑い合う。
 穏やかに刻が流れ


 ―――そして、決戦の日。
 トパーズは海に没し、アクアマリンは闇に呑まれたかと思われた。しかし全てが終わったあと、救助に駆けつけた軍艦の甲板で、2つのアクアマリンと、一つのトパーズが輝いていた―――――





FIN


「男には死ぬと判っていても戦わなければならないときがある」
byキャプテンハーロック

この言葉を下敷きに、宝石言葉を絡めて
「男の尊厳」を書いてみたかったんですが、
見事に挫折しました(苦笑)
やはり身の程知らずなことを
してはいけませんな……
本来のグラフの瞳は茶色なので
トパーズより琥珀なんですが
大目に見てやって下さい(汗)