陸から少し離れた場所に浮かぶ、とある小島。その小島の、海を見下ろせる場所に一軒の家が建っている。
其処に、数年前から一組の男女が住んでいた。
男は、かつてクレイジーバーツと呼ばれた海賊だった。
海賊稼業で名を馳せた彼だったが、生物兵器との決戦で体を壊し、海に出ることが出来なくなってしまった。
引退した今でも赤い船長服に身を包んではいるが、ポーチにおかれた揺り椅子に座り、日がな一日海を見つめるだけだった。
この日も、いつものように朝から海を見つめていた。
共に住んでいる女は、週に一度の日用品の買い出しへと出かけていってしまっている。
何をするでもなく、ぼんやりと時を過ごしていたとき。
不意に、人型の影が彼を覆った。
バーツが影に気付き、海に向けていた視線をそちらへ移した。
其処には、目の前に船長服と船長帽を身に纏い、長く伸びた髪を一つに括った隻眼の男が立っていた。
男はバーツ目が合うと、柔らかな微笑みを浮かべた。
「久しぶりだな」
「グラフ!?」
途端にバーツの顔に生気が満ちる。
バーツは揺り椅子から立ち上がり、グラフを抱き締めた。
グラフは戸惑いつつも、バーツの背中に腕を廻す。
「7年もの間、顔も見せねェなんて、薄情者が」
「ンなこと言ったって……結婚しちまったのに、昔の男が頻繁に顔を出せるわけねェだろォ?」
グラフはそういって、少し困った様に笑った。
「なら、なんで今日は来てくれたんだ?」
「ん……。ちょうど、近くを通りかかったからさ。ちょっとだけ顔を見に、寄ってみたんだ。……あいつは?」
「あいつなら、買い物に行ってるよ」
「そっか」
周囲を気にする様に見回すグラフに、バーツは苦笑しながら応えた。
7年もの月日が経っているとは言え、やはり顔を合わせるのは気まずいのだろう。女が居ないことに安堵し、グラフは肩の力を抜いた。
「グラフ……」
バーツは揺り椅子に腰掛けると、目の前に立ったままでいるグラフの腕を引っ張った。
グラフはよろめき、バーツの胸に倒れ込む。
かつては逞しかった胸板のその薄さを直に感じ、グラフはバーツの顔を見上げて表情を曇らせた。
「やつれたな……」
「そういうお前は、随分艶っぽくなったな」
バーツはグラフを横抱きにして膝に乗せると、船長帽を取り上げ、傍らのテーブルの上に置いた。そしてグラフの長く伸びた髪の毛を優しく梳いていく。
「7年も立てば……人も変わるよ」
「でもよォ」
バーツはグラフの顔を覗き込むと、唐突に彼の唇を奪った。
強引に歯列を割り、舌を差し込んでいく。
荒々しい口付けに最初は苦しげに眉を寄せていたグラフだったが、やがて全身の力を抜き、バーツの首に腕を廻した。
長く深く、満足いくまでにお互いを求め合い、唇が離された。
僅かに息を乱したグラフに、バーツはニッと、昔と変わらぬ笑みを浮かべてみせた。頬を赤らめ、視線をそらせたグラフの耳元へ、唇を寄せ囁く。
「キスは、昔とかわらねェだろォ?」
「バカヤロ……」
バーツは恥ずかしさに身じろぎするグラフの耳朶へ舌を這わせながら、船長服から覗く肌へと指を滑らせていく。
グラフはそっとバーツの手を押さえ、首を振った。
「だめだよ、バーツ」
「なんでだよ」
行為を止められ、バーツは不満そうに口を尖らせる。
「こんな関係は、7年前に止めたハズだろォ?」
納得がいかない、といった様子のバーツに苦笑を浮かべながらも、グラフは優しく諭すように言った。
そんなグラフに反論出来るはずもなく。
でもよォ……と口の中でゴニョゴニョ言いつつも、バーツはグラフへ這わせていた手を大人しく引いた。
バーツの様子をグラフはクスクスと笑いながら見ていたが、ひとしきり笑うと、胸に提げている父親の形見のロケットを手に取り、ぱちりと開けた。
そしてそれをバーツに見せた。
ロケットの中では、グラフと、彼によく似た子供が2人、微笑んでいた。
バーツはグラフの顔を見つめて言った。
「お前の子か?」
「ああ。海賊になるかどうかは、まだ解らないけどね」
そう言って写真の中の子供達を見るグラフ。その時、彼の瞳はこの上なく幸せな色を浮かべていて、バーツの知らない男の目をしていた。
「グラフ」
「ん?」
「今、幸せか?」
バーツは腕の中のグラフの頬をそっと撫で、微かな声で問いかけた。
グラフはバーツを見つめると、どこか寂しげな笑顔で頷いた。
「幸せだよ。妻には先立たれてしまったけれど……、可愛い子供達を残してくれたしね」
「そうか……」
「バーツは? お前もあいつと一緒になって、幸せなんだろォ?」
「幸せ……なのかもな」
真っ直ぐに見つめてくるグラフから視線を逸らして俯き、くぐもった声で答えた。
「……よかった。それだけが気がかりだったから。
もう帰るよ。これ以上此処にいると……忘れていた気持ちを思い出してしまいそうだからさ」
グラフはテーブルに載せられていた船長帽を手に取ると、バーツの膝から降りて立ち上がった。
バーツは揺り椅子に腰掛けたままグラフを見上げ、薄い笑みを浮かべた。
「また逢えるよな?」
その言葉に、グラフは俯き首を振った。
「オィッ……」
思わずバーツがグラフの腕を掴む。
が、すぐに思い直し、掴んだ手を離した。
「それじゃあ」
「……達者でな」
「バーツも。もう逢えないけど……元気で……」
そう言ったグラフは一瞬だけ、泣きそうな顔をみせた。
だがすぐに踵を返し、海風に船長服を靡かせて振り返ることなく去っていく。
バーツは椅子から腰を浮かせると、彼の後ろ姿に向けて手を伸ばした。
しかし伸ばした手を戻し、頭を振った。そして揺り椅子に腰掛けると、瞳を閉じて、ゆらゆらと力無く椅子を揺らし始めた。
…出来ることなら、引き留めたかった。しかし、別れを切り出したのは自分なのだ。
初恋を選び、失ったものの大きさに気付いたときには、すでに手遅れだった。
己の浅はかさを悔やんでみても、時は戻せない。
悔恨の念にうたれながら、日々を過ごしていくほかはない。
グラフがバーツの視界から消えて暫く立った頃。バーツは閉じていた瞳を開けると、立ち上がり、崖の側へと歩いていった。海の向こうに、マストに風を孕んで、波を裂いて去っていくクロウバード号が見えた。
自分の身勝手で失ってしまった、己の半身とも言うべき人。2度と取り戻すことの出来ない半身を、バーツはいつまでも見送り続けた。
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